私の愛しいアップルパイへ
だいたい10年前のちょうどこの時期、どこまでも真っ直ぐで純粋で俗世とかけ離れて高飛車で汚れを知らない燦然と輝く太陽の光とは打って変わって、私は鬱屈とした生活を送っていました。
システムエンジニアとしてのサラリーマン生活が5年経った頃で、小学生の頃からの音楽家になるという夢を捨てられずに悶々としていました。
壮大な夢を描くと、今日1日が取るに足らないような気がして、ウンザリしてしまう
私は「いまさら一曲作り上げたところで一体何になるのか?」という不安にやられていました。「25年間も芽が出なかった夢がそう簡単に都合よく実るはずがないだろう」という自信喪失もおまけで付いてきました。いっそのこと夢なんぞ捨ててしまおうと考えたことは1度や2度ではありませんでした。
仕事が終わった後や土日祝日も前向きな活動に手をつけるエネルギーは残っておらず、ただ無気力状態のうちに時間を浪費することを許していました。当時、私が頭の中で何回も何回も唱えていたフレーズは以下のようなものでした。
時間よ!早く過ぎ去ってくれ!
生まれてから25年。それは私が今まで培ってきた病のような典型的な行動パターンでした。壮大な夢を描いてみせたものの、目の前の1日が取るに足らないような気がして、ウンザリしてしまうのです。
1日は掛け替えのないものであると説くのは簡単です。今日が最後の日だと思えという格言は何度も耳にしました。「俺たちに明日はない」を観れば、その考え方の高尚さは十分に理解できます。しかし、そのように生きるのは大変難しいことです。なにしろ私達の傍らにクライドは居ないのですから。
私は1日を前にして、1日を取るに足らないと感じ、無気力状態に陥るようになっていました。そして「俺たちに明日はない」みたいな映画を観て1日を浪費していたのです。きっと、いつか決定的な出来事が起こってくれるんじゃないかって。掛け替えのない1日に没頭したい!…しかしそれは今日ではない…ってな具合です。
理想と現実の乖離は時に人をひどく蝕みます。そして希望を根こそぎ奪ってしまうこともあります。どんなに壮大な理想も、希望がなければ行動に移すことはできません。私の頭の中ではキング牧師が「私には夢がある!」と叫ぶ一方で、ピンク・フロイドが「お前はスタートの合図を聴き逃したんだ」と歌っていました。
タスクシュート時間術との出会いが1日の価値を大きく上げてくれた
このような具合に、私はずっと好きなこともやりたいことも夢も明確にあったのに、グズグズと行動できずにいました。この状況に突破口を開いてくれたのは「タスクシュート時間術」でした。
タスクシュート時間術は誰もが望むような近道を提供してはくれません。ただ毎日毎日自分の取るに足らないと思えるような行動の記録を事務的な画面に1つ1つ積み重ね、少しずつ、本当に少しずつ生活をチューニングする時間術です。特別なことは何一つありません。
しかし、それこそが決定的に重要なことでした。行動ログのどれ1つを取っても、私の日常に特別なことなど何1つとしてありませんでした。これは当たり前に思える発見ですが、私にとっては輪をかけて重要な発見でした。
1分単位の行動ログの1つ1つの積み重ねが間違いなく1日を形作っていて、その総体が間違いなく未来を作っているのだと現実を直視したからです。それまでの私は1日が取るに足らないとばかり思っていました。そして、”いつか”決定的なことが起こるのではないかという現実逃避に溺れていたのです。いつかサイコキラーみたいな名曲が突然降ってくるんじゃないか?いつかリック・ルービンからスカウトされるんじゃないか?いつかドアを開けたらクライドが立ってるんじゃないか?
そんなことはありえませんでした。なぜなら、その“いつか”の未来は今取るに足らないと感じていた1日1日と地続きだったからです。このまったく当たり前に思えるようなことが、タスクシュート時間術を実践してみて初めて、妄想だらけだった私の頭と心に浸透したのです。
少なくとも私にとってタスクシュート時間術は過去を効果的に振り返るためのものでも、目の前のタスクをより多くより速く終わらせるためのものでも、好きなことにひたすら没頭するためのものでもありません。望ましい未来を築くためのメソッドです。そして、それこそが生まれつきダイハードな夢想家である私が私の人生に最も望んだことでした。
大げさなどではなく、タスクシュート時間術の実践は人生を救ってくれました。あれから8年が経ち、「タスクシュート時間術」を広めることが私の使命となったのは必然だったのでしょう。私がTaskChute Cloudを開発したのもそのためです。
貴下の従順なる下僕 松崎より